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環境のためでなく



去年の7月ひょんなことから一時帰国した私は、アレっと気になる体験をしました。
このサイトを読んで下さったのか、我が母から私の酔狂で珍なるライフスタイルを聞いたのか、幼なじみのお母さんが「偉いわねぇ、りょうこちゃん。やっぱり環境にやさしくなきゃダメよねぇ」。
ガーン、私、そんなつもりは毛頭ないのよ、おばちゃん〜。
おばちゃんは、何を勘違いしてしまったか、私が環境のために「エコ生活」を送っていると解釈してしまっているようで、その久々の対面の場で彼女の誤解を解くことは出来ませんでした。

その後も、何回も色んな方から「偉いですね」とか「凄いですね」とか我がライフスタイルに対してコメントを頂いてしまい、私を持ち上げた挙句の果てにほとんどの方が「私なんて・・・」と謙遜なさったりして。
私としては、有り難いけれど理解不能なこのコメントは、実はなんとも不本意だし、やめて〜という感じ。
だって、私の酢シャンプーやら布ナプキンやらそういうものは、何と言いますか、その、爪を切ったり、トイレに行ったりするのと同系列の、日常の中でも他所様から褒められちゃったりしたら「変」なカテゴリーに属するものだから。
ウンチの後、「じょーずにお尻がふけまちたねぇ〜、エライエライ」と、褒められてしまったような戦慄が30女である私の中に走るのです。
何かがオ・カ・シ・イ・・・。

チョット前までは「何?シャンプー使うの止めた?酔狂ねぇ、え、気持ち良いの?あ、そう、なら良いけど、ほどほどにしときなさいよ」と、コレくらいの冷静なコメントが大勢を占めていました。
私もこれには納得、妥当な評価と満足していたのですが、それをいきなり「スバラシイ」とは、これ如何に?

エコとかエコロジーなんて日本で一般的に言われ始めたのは、忘れもしない1992年前後。
その年の6月、大学5年生になった親不孝な私は交換留学先から帰国したばかり。
なにしろ「即」就職活動を始めなくてはならない時差ボケ文化ボケの私の目の前に、突如として現れた「環境にやさしく」とか「エコロジー」という耳慣れない用語。
これにはかなり悩まされました。
何故か?
即ち、就職活動をするんでも「環境」とか「エコ」とかいった、魔法の言葉を言うのと言わないのとじゃ、面接での心象が全然違ってくるとかなんとか、そんな情報が飛び交ってたからなんです。

我が青春はバブルにあり(別にジュリアナ行って躍り狂ってた訳じゃありんせんがね)、何しろ世紀末を思いっきり不健康に謳歌してたんです。
私としては、若さゆえのこだわりの世紀末だったんです。
オマケに専攻は「仕事に結びつかない事」では折り紙付きの美術史、しかも時代はイタリアン・ルネッサンス。
その中でもアンニュイさならピカイチのボッティチェリを専門にしていたんです。
もう社会性とかゼロな訳です。
ずうっと親掛かりの学生しかやったことなかったわけですし。
シャワーはジャージャー、電気はつけっぱなし、生活は夜型、コマーシャルには踊らされ、新製品にはすぐ飛びつく、てな訳です。
それをいきなり「カンキョー」とか「エコロジー」なんて・・・。
「カンチョー」とか「エノコログサ」の方がまだ身近。

しかも、もともとやる気のない就職活動にもってきて、「カンキョーって言うと就職に有利なんだってー」説は、「環境にやさしい」とか「エコロジー」という言葉に対しての私のイメージを非常に悪いものにしました。
当時の私は「カンキョー」って聞くと、オエーっとなるパブロフの犬に成り果ててしまい・・・。

それでもやっぱり小心者だから、「環境」について書かれたマニュアルっぽいものにも目を通す努力もチラっとしましたが、兎にも角にもカオス状態。
生活雑排水がイケナイの、護岸工事が云々、フロンがダメ、オゾンホールが何とかかんとか、それはそれはもう混迷を極め、もうすっかりイヤンなっちゃった。
エコロジー学習からすっかりドロップアウトした負け犬の私は「こんなのぉ、なんだか頭の中でゴタゴタ哲学するような、そんなモンじゃないもんー」と虚しく遠吠えしたのでありました。

それから、もう早10年。
日本は世界で一番「環境にやさしい」製品が多い国(タブンね)になりました。

環境にやさしい石鹸シャンプー、環境にやさしい洗濯石鹸、環境にやさしい節水シャワーヘッド、環境にやさしい包装。
環境にやさしくないペットボトルやアルミ缶には、「ザ・免罪符」のリサイクルマークがベタン。
コマーシャルも「環境にやさしい」の連呼。
なんだか日本は「環境にやさしい」教団に占拠されてしまったみたい。
善男善女は「環境のために」なんかしないとイケナイという強迫観念にせまられています。

よく「健康のためなら死んでも良い」なんて本末転倒の笑い話にでていますが、「環境のためなら死んでも良い」っていうのはなんだかなぁ、悲壮過ぎて笑えません。

分別ゴミもやってるし、スーパーに牛乳パックのヒラキは持ってってるし、合成洗剤は悪いっていうから石鹸にしたし・・・、次ぎは何をしたら良いかしらっ。

信心深い方はそこで、「環境のために」シャンプー使用を止めようとなさったりする。
それはそれは悲壮な覚悟の末、我が身を「環境のために」捧げるのです。
シャンプー使用を止めるっていうのは、最近の「環境にやさしい」教の中では、レベルアップのための通過儀礼のようになってきている感じさえ受けます。
なにしろ「止めちゃう」って説得力ありますから、教団の中でもこうちょっとすごい感じ。
と、いう訳で、そういう方からすると、3年間石鹸も使わず、お酢で洗髪してまーすなんていう私たち夫婦なんかは、仙人の境地にも達した「スバラシイ」事例になるみたいで・・・・。
だから、「偉いですねぇ」とか「スバラシイですねぇ」とか、褒められちゃうんじゃないでしょうか。
それでもって、まだ「環境のために」何かを献納なさっていない方は、何となく後ろめたくって「私なんて・・・」と謙遜なさる。

でも、私は「環境」への喜捨の為に、シャンプーを使わない訳ではありません。
あくまでも「私自身のため」、そうしてると髪の調子が良いし、将来「自分が出した排水」を自分で浄化する時楽だし、シャンプー代を他にまわせるし、煩わしいゴミがでないし、シャンプーを使わない事で新しい発見があるし、だからやっているだけで、「環境のために」シャンプー無しの生活を続けているのではないのです。
例え、それが結果的に「環境にやさしい」のであっても、私は「環境にやさしい」教の信者じゃないからここはどうしても譲れません。

我々日本人は結果至上主義教育を受けているからか、そもそもの動機(モチベーション)とか、過程とかって結構軽視しがちなように、よく感じる事があります。
私が、どうしても譲れないと言っても、結果が「環境にやさしい」んだから、動機がなんだろうと同じ事だ、とか、「なんでクダを巻くかなぁ」とか言われてしまうかもしれません。
それを覚悟の上で、あえて言わせて頂ければ、特に環境を云々する時、モチベーションこそが命と私は信じます。

例えば「環境のため」が動機で「環境にやさしい」事をしようする方がいるとします。
この方をここでは、「環境の人」とネーミングしましょう。
この方法では、動機が自分の外、倫理観や社会通念にあるので、自分がやっているのが「環境にやさしい」事だという正当性を証明するために、どこかが出した実験結果の数値や、誰かの学説など、やはり自分の外にあるものに頼らざるを得なくなります。
この「脳味噌で環境する」環境の人が陥りやすいのは、次々と出される実験結果に翻弄され、自分の信念と違う意見を持つ人を敵視し、「環境にやさしくない」人達を軽んじ、そのような「蛮人」の都合も考えず「啓蒙」しようとする、こんな傾向です。
なぜって、環境にやさしくない人々や、自分の信念と違う事をしている人は「倫理」に反しているから、糾弾されなければならないのです。
まさに「環境魔女狩り」をする訳です。

それに加えて、どの方法が「正しい」のか、マニュアルを常に欲するのも「環境の人」の特徴です。
「お酢シャンプーに切り替えてみたのに髪の調子が良くないが、何かやり方が悪かったのでしょうか」
「シャンプーを石鹸に切り替えようと思うのですが、どうしたら一番いいでしょうか」
などなど、ご自分の「身体のセンサー」を使えば、それなりの方法が編み出せるのに気が付かず、「答え」や「正解」を外部に探してしまう、こんな傾向。

例えば、脈々と続いている「合成洗剤vs石鹸」論争というのがあります。
どちらが環境にやさしいのか、というアレです。
一般的には石鹸の方が「やさしい」と信じられていますが、時に合成洗剤の方が環境にやさしいのだという実験結果が発表されたりする事があります。
どちらを使おうと、そんなに変わらないのだ、とか。
そうすると、石鹸派は「騒然」となるわけです。
信じて、不便なのを乗り越えてやってきたのに、こんな数字が出てくるなんてぇぇぇ。
ヒューっと奈落の底に落っこちる石鹸派。

この間の朝日新聞の記事に対し、環境コンシャスな方が出入りしている石鹸屋さんのHP「三友」の掲示板の反応は、上記のような感じでした。
気の毒なくらい落ち込みの雰囲気が伝わってきまして・・・。
どれだけの多く方が「石鹸は環境に良い」と信じているからがために、「環境」を慮って石鹸を使っているのかが、窺い知れました。

何かの実験結果の数字は、往々にして「コレコレを導き出すため」に設定された実験によって出てきた数字です。
目的のない実験はありませんし、目的があれば、どうしたって何らかの主観が入ります。
世間に発表された実験結果数値の陰には、たくさんの切り捨てられた数字が含まれています。
どうして切り捨てられたか。
導き出したい実験結果に程遠い数値だったり、少数派の数値だからです。

今度は、環境の人はすぐ啓蒙したがる例。
昨年(2000年夏)の三宅島噴火で避難されている方への毎日新聞に掲載されていた「布ナプキン支援」のコラム。
これには目を覆いました。
覚えている範囲で要約すれば「避難生活でゴミが出て大変でしょう。」と。
で、「少しでもゴミを減らすために、布ナプキンの作り方をお教え出来ます」と。
「興味のある方は500円で小冊子もお分けします」・・・。
あのぉ、タダでさえ不便極まりない、プライバシーも何もない、ストレスだらけの学校の体育館などでの避難所生活で、その上「ゴミ」の心配までして、血まみれドロドロの布ナプキンの洗濯までしなさいってこと???
あんな緊急事態の時こそ、使い捨てのものを上手に利用すれば良いんじゃないでしょうか?
私がもし避難していて、あのコラム読んだら怒髪天をついちゃって、布ナプキンなんて能天気なものに対してすごい悪印象持ったと思います。
もう、遠慮しないで言っちゃお。
コラム書いた方も、そのコラム載せた毎日新聞もずれ過ぎですってば。
「環境」とか「ゴミ問題」とか、啓蒙するにしても時と場合を慎重に選んで欲しいものです。
環境の人は、「環境にやさしい」教への信仰心が高まるあまりデリカシーが不足しがち。

そして環境の人が疲れ果て、力尽きて最後に行きつくのが、どん底の悲観主義。
水質汚染を嘆き、大気汚染を嘆き、「環境のため」に「やさしさ」を突き詰めていく。
あれダメ、これダメ、もう我慢し通しの雁字搦めです。
自分の生活も「環境のお蔭」でもう苦しいばっかり。
鬱々と煮詰まってハタと気付くは「汚染の全ての原因は人間」。
環境のためには、人間は滅亡しなくちゃイケナイ。
いやいや、でも「環境のために」っていうのを始めたのは「将来の子供たちのため」だったはず・・・。
でも、子供達見てても、あいつらは全然環境のためによろしくない・・・。

危険です。
「環境のため」に「環境にやさしい」ことをするのって、なんだか凄く危うい。

環境をイメージする時って山や川や湖、そういう外ばかりに目が行きがちです。
テレビなんかが「環境」を映像化するとき、それが一番絵になりやすいから。
でも、生身の生活している人間が環境をイメージする時、もっと自由な発想で良いんじゃないでしょうか。

そういう脳味噌からの「これぞ環境」というステレオタイプの情報から少し目を転じて、自分の身体や心の声に耳を澄まし、土をいじり、作物をちょっぴり育て、別に作業をしない日でも菜園に出てジィーっとボーっと観察する。
そんなの無理だったら、アパートの敷地の隅っこやアスファルト舗装の端っこ、他所様のお庭や畑、どこでも良いから数ヶ月にわたって1点観察してみる。
何か感じることはないでしょうか。

私は、幸いな事にかなりボサーっとした生活をしています。
というか、「ボサー」をするために、移民したと言っても過言ではありません。
このボサーっとした無駄な時間の積み重ねこそが我が人生なんです。

そうしてジーっと自分の実験菜園などを見つめている内に、人間の身体が地面や植物にそっくりだなぁとか思うようになって来ました。
皮膚と表土の共通点なんて数え上げたら切りがないほどそっくりで驚きます。
つまるところ、私の身体自体が環境なんだなぁと。
しかも、この1つの環境である自分を推し量るのに、特別な計測器は必要なく、自分で「感じ」ればいいのです。

「人間は環境の一部である」これは、色んなメディアやエコロジストが口にしていて、別に「新説」ではありません。
でも、頭で「人間は環境の一部だ」と「理解」した所で、それが一体何になるでしょう。
自分自身の感覚器を使い、心を持ってして、「自分は環境の一部なんだ」と実感すること、に、全ては始まりませんか?

私は「自分のため」に自分が気持ち良いライフスタイルを送れるように日々実験を繰り返し、「気持ち良い」という結果を得られたものを継続するようにしています。
あくまでも頼りは、自分の身体のセンサーと、自分の気分です。
どこかの研究機関が提出する数字を否定したりはしませんが、それらはあくまでも参考です。
新聞が何を書こうが、その道の大家がなんと言おうが、同様に参考。
それを私の行動の根拠にはできません。
私にとって揺るぎ無いものは、私の身体と心の反応であって、数字や○○論ではないからです。
ただし、私が自身の身体で得た結果ですから、これは非常に個人的なものであって、他の方が私の方法で気持ちが良いかは全く保証の限りではありません。
また、私の心地よさは天気や季節、年齢や家族構成、時間的余裕、経済的余裕などで、様々に日々変化します。
「こうしなくちゃイケナイ」のではなく「何が今の自分にとって最良か」を、考えるでもなく感じとり、それに従っています。

人間の身体は恐るべき高性能センサーで包まれています。
そして、そのセンサーは1人1人の個人によって、許容量や繊細さが違ってきますし、それにその人のメンタルな部分も複雑に絡まって、「気持ち良い」が導き出されます。
こんなすごいデータを活かさない手はないでしょう。

「自分のため」に気持ち良く暮らす事は、科学的に環境のためになるかどうか検証できませんし、それが「正解」なのかどうか客観的な判断を下してももらえません。
ましてや、偉いことだったり、社会的にスバラシイ事でもなく、ひたすらに地味で単純な生物活動です。
でも、「環境のため」と肩肘をはった、「あれダメこれダメ」の方法より、実践するのに無理が出ません。
憎む敵も出来なければ、コロコロ変わる実験データに惑わされることもありません。
無理が無ければ、継続できる。
継続できれば、自分の中でデータの蓄積が出来る。
それを「こんな事してるけど、結構気持ち良いよ」と何処かで話したりすれば、それをヒントにまた誰かがその人なりの方法を編み出して行くかもしれません。

声高に「環境にやさしく」とか言うのはカッコイイかもしれないけれど、それがどれほどのポジティブなものを生み出せるでしょう。
1日の内、ほんの5分でも10分でも良い、ボーっと身体と心からのメッセージを受け取る時間を作る。
気持ち良いことを自分のためにし続ける。

内なる環境が気持ち良ければ、外なる環境にも好影響があるかもしれません。
それは何しろ考えていないで、身体と心に訊きながら実験し、実行することで、導き出される結果です。
方法は無限に、内なる環境の数だけ、行動を起こす人の数だけあります。
誰のが正しいとか、間違っているとかではなく、それぞれの人にとって「気持ちの良い」それぞれの方法が。


***後書き***

このコラムを書くにあたって、私は大嫌いな「環境にやさしい」という言葉を使いまくりました。
「環境にやさしい」というのは、どこかの有能なコピーライターが生み出した、商品を売るための言葉です。
水の汚れを少なくしたい時、洗剤の使用量を半分にすれば、汚れは半分で済みます。
細かい数値やデータなんかなくっても、これは誰でもすぐ分かることです。

でも、そうしたら、洗剤が半分しか売れなくなってします。
それでは困ってしまう製造元、引いては日本経済は、「環境にやさしい」商品を使えば大丈夫、あなたは大変優れた選択をなさいました、と、消費者をケムに巻いたのです。
如何に「環境にやさしい」洗剤だって、ブクブク使えばちっともやさしくなんかありません。

ペットボトルもアルミ缶もリサイクル出来るからという理由で、「ま、いっか」と消費されていますが、使わないで済むならそれがいいのです。
試しにお家のリサイクル用のゴミ箱に入れてある、ペットボトル、取りだして、良く洗って水筒として明日から使ってみて下さい。
水を入れて、どこに行くのにも持っていくのです。
そして、ガラス瓶にでも、その日飲んだ水の分、「ペットボトル飲料を買ったつもり」で貯金をしてみましょう。
1ヶ月たっても2ヶ月たってもペットボトルはへたりません。
こんな立派なものを「リサイクル」を免罪符に使い捨てていてはいけないなぁと実感出来るはずです。
そして、ガラス瓶の中にはあふれんばかりの100円玉。
これってどういう事でしょうか?

「環境の為にリサイクルを心掛けましょう」と書かれたペットボトルのラベルには、「でもね、リサイクルするには大量のエネルギーが要るからね、そこんとこヨロシク」と、ここまでは書かれていません。
「環境にやさしい」と「リサイクル」は、日本人と環境の関係をますます頭でっかちにし、混乱させています。



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