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危機管理考


その2 言葉のイメージ







 前章の冒頭で触れた通り、前章で引用したエッセイを書いたのは八方尾根ニュージーランド人スノーボーダー雪崩事故直後のことであった。 そうした折だから、私が参加させて頂いている各種メーリングリストでも危機管理はたびたび話題になったし、ダイレクト・メールで話し合う機会もたびたびあった。 そうした中で気づいた事が2つある。

  1. 『危機管理』という言葉の定義付けが人によって千差万別で、公の場で議論の俎上に上げても水掛け論になりやすく、建設的な議論を望むのは不可能に近い

  2. 『危機管理』という言葉自体に悪印象、悪感情を喚起する要因があるらしい

 双方ともいわば、この言葉に対するイメージの問題だ。 これらについてまずちょっと考えてみたい。

 まず1.ついて。 『危機管理』という言葉自体は英語のRisk Managementの直訳だ。 英語の方はさておき、この日本語の『危機管理』という言葉、よく観察してみると非常に広い範囲で色んな意味で使われていることが分かる。 極めて曖昧な言葉なのだ。 『国家危機管理』と『アウトドア危機管理』ではまったくニュアンスが違う。 ところが、話し手(書き手)も聞き手(読み手)もそのニュアンスの差を明確に意識していないように思えるのだ。 これでは最初から話にならない。

 ここでは論旨を明確にするために『アウトドア危機管理』に絞って話をすすめてみたい。 よってこれ以降断りなく『危機管理』という言葉を使う場合、『アウトドア危機管理』を指す事とする。

 さて、本題に入ろう。 問題の『危機管理』という言葉、これは私自身はSafety Measure=安全対策とほぼ同義と捉えている。 詳しくは後述するが、私の場合は危機管理を『危機を回避し、命を守るノウハウ、技術』と定義している。 ところが色んな方と話をしてみると、大半の方はもっと広く曖昧な意味で捉えていらっしゃる事がわかってきた。 その捉え方は個人差があってマチマチではあるが、共通した特徴は『危機管理と責任論を区別出来ていない』ということである。 特に、危機管理と時期を同じくしてよく耳にするようになった言葉『自己責任論』を『危機管理』と混同してらっしゃる方が多いようだ。 あるいは『危機管理』と『管理責任』もよく混同されている。 『自己責任』にしても『管理責任』にしても『責任論』の1つに他ならない。

 次の文を見ていただきたい。

『今月×日、△△県○○市の□□海水浴場において、遊泳禁止区域で遊泳中の大学生1名が溺死する事故が発生した。 事故に気付いた監視員がすぐに救助に向かい、迅速に人口呼吸等の処置を施したが、手当ての甲斐も無く3時間後に病院で息を引き取った。 被害者本人の無謀な行動はもちろん批判の対象になっているが、海水浴場の管理責任者である○○市の危機管理体制が十分だったかどうかという点にも疑問が残る。』

この手の文は誰しも1度ならずともご覧になったことがあるだろう。 そして、おそらくほとんどの方が違和感なく読まれてしまったことと思う。 ところが、私にとってはこの文中の『危機管理』という言葉の使い方には、非常に違和感を感じてしまうのだ。 これがまさしく『危機管理』と『責任論』を混同した例の1つなのだ。 この点についてこれから次段で詳述していこうと思う。

 その前にひとつお断りしておかなくてはならない。 ここで何度か『混同』という言葉を使っている。 熟考の上、あえて自己責任論を危機管理の定義の中に含ませて理解されている方もいらっしゃるだろうから、一概に『混同』という言葉を使うのはそういう方達にとって少々失礼に当たるかもしれない。 しかし、ここで『混同』と言っているのは特に明確な理由もなく、まさに『混同』されている場合の事である。 よって、その点はひとまず置いて私の見解を一読頂ければ幸いだ。

 私は『危機管理』と『責任論』は明確に分けるべきだと考えている。 前述したように『自己責任』も『管理責任』も、明らかに『責任論』に含まれる言葉だ。 通常『危機管理』という言葉が聞かれるのは前段で挙げた例のように、事故が起こった場合だ。 事故が起これば当然、その事故の責任は誰が負うのかという問題も発生する。 だから『危機管理』という言葉が出て来る場面には『責任問題』の話も出る。 それゆえに両者を同じカテゴリーの言葉として、深く考えないままになんとなくセットにしてしまう。 あるいは『危機管理』『管理責任』両方に含まれる『管理』という共通の言葉によって、似たイメージで括ってしまうのかもしれない。

 果たしてそれでいいのだろうか?

 お客様の命を預かって毎日毎日フィールドに出掛けている立場の人間からしてみると、『危機管理』というのはあくまでも『身の安全を守る技術』であり、それ以上でもそれ以下でもない。 私としては前述の通り『安全対策』と言い換えて頂いて一向に差し支えない。 つまり私にとっての『危機管理』とは、考え得る危機をすべて想定した上でそれに対処するための事前の情報収集、技術向上のためのトレーニング、道具の準備、イメージトレーニングに始まり、行動中の危機予測、危機に面した時の回避行動など、危機回避に繋がることは全て含む。 その代り、事故が起こった際に誰が責任を取るか?なんて事はその範疇に入らない。 目の前に命の危険が迫ったとしたら、『その状況が誰の責任か?』なんて関係ないのである。 自己責任だろうが、他人の責任だろうが、責任問題なんかその後の問題だ。 まずとにもかくにも生還する事が問題であり、そのための技術・能力が『危機管理能力』に他ならない。

 例を挙げよう。 シーカヤック・ガイドツアー中に天候が急変し、わずか数分の間にベタ凪の海が3m以上の波が砕ける地獄へと転じたと思っていただきたい。 (もちろん、実際にはそんな短時間でそこまでコンディションが激変する事はまずありえないが。)
 これが背景だ。 そして登場人物は熟練カヤッカーであるジョンと私、そしてカヤック初挑戦の3名の計5名。
 さて、第1の場面では私はこのガイドツアーに参加した客の1人であり、4名の客を率いているガイドはジョンだとしよう。
そして第2の場面では私がこのツアーを率いるガイドであり、ジョンは4名の客のうちの1人として参加しているとする。 つまり第1の場面ではこのグループの責任者はジョンだ。 そして言うまでも無く第2の場面では私が責任者である。

 さて、この2つの場面を比べてみていただきたい。 この2つの場面で私のとるべき行動は変わるであろうか? 第1の場面では私には責任がないので、隣で沈している艇のレスキューはジョンに任せておけばいいのだろうか? あるいは私自分が沈して極めて危険な状況になったとき、セルフレスキューで切り抜ける技術を持っていても責任者ジョンを当てにしてレスキューを待っていればいいのだろうか?

 答えはもちろん『ノー』である。

 もちろん、責任者がリーダー、もう一方がサブリーダーのように、どちらが責任者であるかによって役割の分担や指揮系統などに多少の違いは出て来るかもしれない。 しかしこの場合、『危険な状況から5名全員で生還する』にあたってどちらが責任者であるかなんて些細な事でしかないし、やるべき事・やれる事が変わるわけでもない。 それぞれの危機管理能力に応じて持てる技術を駆使し、全力を尽くして難を逃れるだけだ。

 というわけで、現場で常にお客様の命を預かる立場の私にすれば、『危機管理=身の安全を守る技術』という極めて単純な定義になる。 もちろん、私の見解が必ずしも正しいなどとは言わない。 毎日現場で命を預かりつつ危機管理をしている人間と、生まれてから1度も真剣に危機管理を意識しなきゃいけない場面に出くわしていない方とでは言葉の定義付けが違ってくるのは当然だし、必ずしも私の定義付けが正しいという根拠もない。 しかしながら、なんとなく2つの言葉を混同してしまっており、そのまま『危機管理を論ずる』のは、やはり感心出来ない。 1.「建設的な議論を望むのは不可能に近い」と書いたのはそう言う事だ。

 冒頭で挙げた海水浴場の文を思い出していただきたい。 ここまで読んでいただければ、私が申し上げた『違和感』をご理解いただけたのでは無いだろうか? あの文は

海水浴場の管理責任者である○○市の危機管理体制が十分だったかどうかという点にも疑問が残る

となっていたが、正しくは

海水浴場の管理責任者である○○市の管理体制が十分だったかどうかという点にも疑問が残る

となるべきだろう。 私の定義によれば、この事故に関する○○市の危機管理といえば『監視員によるレスキュー』にあたる。 この場合レスキューは迅速に行われたようであるから、○○市の危機管理は批判するにあたらない。 遊泳区域を示す方法などの管理体制には疑問が残るかもしれないし、その点について責任問題が発生するかもしれないが、この事故に関する『危機管理』とは直接関係がない。

 さて、2.の方に移ろう。 危機管理論が交わされている場面を観察していると、『危機管理能力不足を指摘されると非常に感情的になりやすい』という特徴がみえてきた。 あなた自身、次のように言われたらどうだろう?

 「これはあきらかに君の危機管理不足が原因だね」

 「これはあきらかに君の安全対策不足が原因だね」

大半の方が前者の方が不愉快に感じられたのでは無いだろうか? これが『危機管理論』を一層難しくしている要因ではないかと思っている。 前段で論じたように、大半の方の場合危機管理の定義が曖昧で自分自身よく理解出来ておらず、なおかつ『責任論』と混同しているふしがあることから、『危機管理不足』といわれると『責任能力欠如』といわれたような気になってしまうのだろう。 それに対して『安全対策不足』といわれた場合はあくまでもミスを指摘された範囲にとどまるから、比較的不快感が少ないのではないか?

 前段で論じた通り、私自身は『危機管理』と『責任論』は分けて論じるべきだと思っている。 これはこのような『議論の感情論化』を防ぐ意味でも大切だと思っているのだが。 ちなみに私自身がこのように言われた場合は、これら2つの言葉を全く同じ意味で捉えており、責任論とは切り離して理解しているので、特にどちらが不愉快と言う事はない。 どちらのいい方をされた場合も、糾弾されるべきミスをしていた場合は小さくなって恥じ入り、していなければ反論するまでである。

 『危機管理』と『責任論』を分けて論ずるメリットはもう1つある。 『身を守る技術』は世界共通だが、『責任所在』は文化背景の違いによって各国様々な違いが生ずるからだ。 ニュージーランド人スノーボーダーの事故を例に挙げれば、『責任論』と明確に区別した純粋な『危機管理論』ならば日本人とニュージーランド人の間でも議論は可能だが、『責任所在』を含めて話すと間違いなく話は食い違い、誤解が生ずる。 日本とニュージーランドの『責任所在、責任負担』の考え方は、慣習上も法律上も全く異なるからだ。

 結局、1.2.も、新しい言葉をきちんと消化し定義付けしないままになんとなく便利な言葉として多用しているの原因のようだ。 これだけ『日本人の危機管理能力欠如』が叫ばれているというのに、その『危機管理の何たるか?』さえキチンとコンセンサスが出来上がっていないと言う事実に気づいた事は、私にとっては『危機管理能力不足』という以上にヘビーな事であった。 道理で日本人同士の危機管理論は『言葉遊びの水掛け論』になる傾向が強い筈である。 これでは肝心の『危機管理のノウハウ』にいつまでたっても入れない。

 ちなみに最初にお断りしたように、本項でいう『危機管理』は主に『アウトドア危機管理』の事であり、つまりこの『危機』とは『アウトドアで遭遇する身の危険』のことだ。 しかし、『アウトドア危機管理』の技術は、『都市生活危機管理』や『災害サバイバル危機管理』にも応用可能なものだというのが私の持論だ。 責任論をきちんと切り離して考えれば、『アウトドア危機管理』も『災害サバイバル危機管理』も基本は同じ『命を守る技術』だからだ。 責任論をゴチャゴチャにして話をするからわけが判らなくなるだけだと思う。 もちろん、フィールドや危機の種類は明らかに違ってくるわけだから、細かいノウハウが変わってくるのは当然である。 しかしながら、やはり『基本は同じ』だと思う。 詳しくは次章に譲るが、『危機管理意識』がキチンと出来ていればすべてに応用可能だと思うからだ。

 そして『国家危機管理』も、結局その延長線上にあるものだと思っている。 『個人危機管理』も『グループ危機管理』も、やはり基本自体は同じだというのが私の考えだからだ。 つまり『個人レベルのアウトドア危機管理』というものをキチンと定義付け出来ていれば、その延長線上に『国家危機管理』も見えてくるわけで、『危機管理』という言葉は冒頭で述べたような曖昧な捉えどころのない化け物ではなくなるような気がしている。 長くなるのでこの点についてはまた機会があれば別に論じてみたい。






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