banner.gif HOMEアウトドアスタッフバッグその5 雑想『自然保護を比べてみれば』



アウトドア

スタッフバッグ


その5 雑想『自然保護を比べてみれば』







 ちょっと『道具シリーズ』は休んで、今回は野外雑想だ。 アウトドアズマンにとってはすごく大切で身近なテーマ『自然保護』を切り口にして、比較文化論なぞぶってみようかと思う。 くぅ〜、比較文化論だって!カッコイィ〜!!(^_^;;;

 日本にいるときから、書物雑誌テレビなどの情報を通じて、
「西洋と日本とでは自然観が違いそうだなぁ」
ってことは感じていた。 実際にニュージーランドに来てみると、やっぱりこれがエラク違うのだ。 よくニュージーランド人に
「日本との文化の差を感じることは?」
なんて訊かれるが、この自然観ってのは私にとっては相当に大きな違いを感じるものの1つである。 この違いっていうのを一言でいうのはなかなか難しいのだが、敢えていうならば
『ニュージーランドは人間のテリトリーと自然のテリトリーを明確に区分するのに対し、日本は人間と自然の境界が曖昧』
ってな感じになるだろうか。 たぶんこれはニュージーランドに限ったことではなく西洋社会全般にいえることではないかと思うのだが、私が知っているのはあくまでもニュージーランドだけなので断じてしまうのはちょっと早計だろう。 だから、ここではとりあえず『ニュージーランドと日本の対比』って事で書いていくことにする。

 まず私が自然観の違いを痛感した事例をいくつか挙げてみよう。 最初の例は以前Aotearoa Mailに詳述したものを再度取り上げてみることにする。 私は1999年3月にマルボロサウンドのモトゥアラ島にDOCのボランティアとして4泊5日の止まり込み作業をやりに行ったことがある。 DOCっていうのはDepartment of Conservation、ニュージーランド自然保護局のことだ。 日本の環境庁と違い、オフィサー達(お役人諸氏)は短パンにトレッキング・ブーツといういでたちで実際に現場に出て精力的に自然保護活動を行っている、誠に頼もしいお役所なのである。 ニュージーランドの大行政改革のことは日本でも「これぞお手本!」と騒がれたのでつとに有名だが、このDOCという役所もご多分に漏れず、大行革のあおりで人手がまったく足りていない。 そこで、一般からボランティアを募って人手不足を解消しているわけだ。 これは自然保護活動に興味を持つ一般人にとっても願ってもないチャンスである。 そこらへんの高い金をとる『エコツアー』なんかよりもよっぽど面白くてためになるのである。 (↑エコツアー・ガイドの私がこんなこと言っていいのかな・・・(^_^;;;???) さらに私のような外国人だって参加できるのだから、こんないい話はない。 というわけで、このプログラムに参加したというわけだ。

 プログラムの詳細や野生のキウィの画像なんかはAotearoa Mailの方をご覧頂くとして、ここではAotearoa Mailに書かなかったことを取り上げてみよう。 仕事の1つがトラック(遊歩道)の整備だったことはAotearoa Mailに書いた通りだが、実はこの作業が私にとっては相当にショッキングだったのだ。 ここは絶滅稀少種を保護するための島であり、キャンプなどのオーバーナイト滞在が禁止されているほど高度に保護されている場所だ。 だから日本人の私としては、
「トラック整備をする際もなるべく自然にダメージを与えないように必要最小限に」
と思ってしまう。
 ところが!なのである。 実はその正反対にトラック整備の際は、トラック上にあるものはすべて徹底的に排除してしまうのだ。 例えばトラック上にはみ出していてつまづく恐れのある木の根は、土を掘ってからのこぎりで切り取ってしまう。 人間の背丈以内(地上2m以内)の範囲でトラック上にはみ出ている枝や草も、全部きれいになぎ払う。 細いものは植木バサミでバッサリだし、太い枝はのこぎりでギーコギーコ・・・。 つまりトラックの幅が2mあるとすると、幅2m、高さ2mのトラック上の空間からは完全に自然のものを排除してしまうのである。 全く情け容赦なしである。 その代わり、トラックを外れて藪の中に足を踏み入れることは絶対に御法度なのである。 (もちろん、我々作業員は例外だったが。)

 さらにこの時は、一般人立ち入り禁止区域内にDOCオフィサー専用の裏道を1本作った。 この際も木の間を迂回して道を通すような事はしなかった。 狙ったルートに木があれば、容赦なくバッサバッサ伐った。 もちろん、その作業を開始する瞬間まで『保護』されていた場所なのである・・・。 ちなみにDOCのオフィサーが使うだけの裏道なので、一般用トラックと比べて遥かに使用頻度は低い。 でも、バッサバッサ、なのである。

 つまり、人間のテリトリーと自然のテリトリーは、ビシッと完全に線引きされてしまうのである。 それまでにニュージーランドのトラックをトランピング(トレッキング)したとき、あまりにトラックがきれいに整備されているのに感動したものだったが、いざ自分が整備する方にまわってみると
「何もここまで!」
と思うほどに徹底して『整備』してしまうという事を思い知らされてしまったのだ。

 他の例を挙げよう。 私のホーム・フィールド、エイベル・タズマン国立公園南端に隣接するマラハウという村がある。 私の勤務するエイベル・タズマン・カヤックスもそこにあるのだが、そのマラハウの村を取り囲む山々には植林地が多い。 そこに植林されているのは主に松だ。 ちなみに松はニュージーランド原生植物ではない。 外来植物なのである。 ニュージーランド滞在経験をお持ちの方は、ニュージーランドの松の恐ろしいほどのデカさをご存知だろう。 ご存知ないかたはAotearoa MailのTrees(巨木コレクション)のページの最下段の松の木をご覧頂きたい。 これでも別段大きい方のサイズではないし、この程度だったら50年くらいで成長してしまうのである。 だから松は非常に大切な林業資源なのである。

 ところが国立公園などの保護区域内では松の木は徹底的に排除される。 成長が早すぎる外来種の松が、ニュージーランド原生種の森が育つのを阻害してしまう、という理由だ。 前述のモトゥアラ島での作業中も
「とにかく島内を歩く際は、松の木が生えて来ていないかどうか目を光らせろ。発見したらすぐ報告しろ。そのあと直ちに伐り倒せ。」
との指示を受けており、実際私も2m半ほどの幼木を1本伐り倒した。 特にエイベル・タズマン国立公園のように一旦原生林が滅びてしまい、現在再生過程中にある森の場合は、1本の松の与える悪影響は計り知れないものがあるのだ。 だから、松は徹底的に伐られる。

 つまり、この場合は国立公園が自然のテリトリー、境界線を1本越えたところにある植林地は人間のテリトリーなのである。 非常に徹底して線引きされてしまっているのである。 そしてこの1本の線を境に松の木の命運がハッキリと分かれてしまうのだ。

 これって、ある意味確かに分かりやすいことは分かりやすい。 曖昧な部分がないので、誰にでも理解は容易なシステムだ。
 しかし、なのである。 日本人である私にとって、人間のテリトリーと自然のテリトリーをここまで完全にバシッと線引きして割り切ってしまうことに、逆に非常に違和感を感じてしまうのだ。

 最近『里山』という言葉がポピュラーになってきている。 完全な原生林ではなく、かといって100%人間がコントロールしている植林でもないグレーゾーン、これが里山だ。 日本では非常にポピュラーな形の『自然』に違いないのだが、これこそ日本独特の自然観が生み出したシロモノのような気がするのだ。 逆にいえば、この里山なるシロモノ、ニュージーランドではどうも成立の余地がないような気がするのである。 ニュージーランド流に考えれば里山は明らかに人間のテリトリー。 だったらもっと効率よく利用できるように開発されてしまうに違いないのだ。 日本のような、曖昧な形で存続する事はなかなか難しいと思う。

 一般的に日本の森林面積は国土の7割、ニュージーランドのそれは国土の3割という数字を耳にする。 これを知ったあるニュージーランド人のご婦人が
「まぁ、日本は物凄く人口の多い国なのに、よくもそれだけ自然を残しているわね。ホントに自然を愛する人達の多い美しい国なのねぇ。」
とウットリしていた。 日本を過剰に美化している彼女には申しわけないのだが、皆さんもご承知の通り日本はニュージーランドに比べて決して自然豊かな国ではない。 手元に資料がないので断言するのは憚られるのだが、この両者の森林面積比率、どうやら算出基準がまったく異なっているような気がするのだ。 少なくとも日本の7割という数字には植林地や里山と言われるものが間違いなく含まれている。 いわゆる保護地域や原生林だけではこんな高い数値が出るはずがないのは小学生にもわかることだろう。 翻ってニュージーランドの3割という数字を見てみると、これは逆にどうも植林面積を除外して算出しているような気がしてならない。 植林地を含めると、3割どころではないような気がするのだ。 つまりこの3割っていうのはおそらく『人の手のはいっていない森』、つまり国立公園や保護地域などの面積比ではないかと思うのだ。 同じ算出方法を取れば、おそらく数値は完全に逆転するのではないかという気がする。

 ま、人口密度が20倍以上も違うんだから日本がこういう点でニュージーランドに敵わないのは当然の話。 そのこと自体をいまさら別段とやかくいうつもりはない。 私がここで問題にしたいのは、『森林面積の算出方法が違うらしい』という事実の方。 これこそが、まさしく『自然観の違い』を如実に物語っていると思うのだ。 つまり日本人にとっては植林した杉林や檜林も自然であり、森林に違いないのに対し、どうやらニュージーランド人は植林した松林は森林ではないようなのだ。 彼等にとって植林地っていうのは、畑と同義、極論してしまえば『松製造工場』でしかないらしい。 そういう意味ではニュージーランドの風物詩であるヒツジの牧場も同じ。 日本人にとって見渡す限り広がる牧場風景は心休まる『自然』かもしれないが、あれは彼らにとっては自然ではなく、あくまでも『羊毛育成工場』でしかないようだ。

 日本人はニュージーランド人ほど明確に『人間のテリトリー』と『自然のテリトリー』を区別していない。 思うにこれはいわゆる『宗教的バックグラウンド』の違いではないだろうか? ニュージーランドはヨーロッパ諸国同様、キリスト教文化圏の国である。 ニュージーランド人である以上、クリスチャンであるか否かをとわず、いわゆるキリスト教文化の影響を免れて育った人はいないはずだ。 これはいかに無信心であろうとも日本人である限り、神道、仏教、儒教などの影響を受けて育ってしまっているのと同じ事だ。 そして、私はこのニュージーランド人の人間と自然のテリトリーを完全に区別する考え方は、キリスト教文化のバックグラウンドの影響に他ならないと理解している。

 対する日本は、木々や石ころはおろか言葉にさえ精霊が宿る国であり、一寸の虫にも五分の魂が宿る国なのである。 人間自身もそういう大自然の一員であり、明確な線引きが出来ないのが我々の自然観だ。 もちろん現代の都市生活を送る日本人にはこの意識が薄れつつあるのだろうが、それでもやはり日本人である以上ニュージーランド人に比べればまだまだ人間と自然の線引きは曖昧だ。

 先ほど日本人独特の自然観が生んだものとして里山を挙げたが、もう1つ忘れちゃいけないのがある。 日本人の『自然破壊』は非常に徹底したものがあるが、これもこの日本人独特の自然観が根っ子にあるような気がするのだ。 『自然』の定義が広く曖昧ゆえ、コンクリートで三面護岸してしまった河も日本人にとっては依然として『自然』として受け入れる事が出来る、という事が原因なのだろう。 だから『自然破壊』をそれほど切実に感じる事が出来ないのではないだろうか? 以前、ある大学教授が行ったアンケート調査結果を読んで愕然とした事がある。
「次の3枚の写真のうち、一番キレイなのはどれですか?」
という簡単なアンケートだ。 用意された写真は

  1. 全く護岸されていない草木の茂り放題の川

  2. コンクリートで三面護岸され、川沿いに並木遊歩道が整備され、テニスコートがあったりする公園開発された川

  3. 三面護岸されたヘドロだらけのドブ川

 もうお分かりだと思うが、アンケート調査の結果をみると、圧倒的多数で2.が票を集めていたのだ。 3.にほとんど票が入らなかった事はいうまでもないが、1.への投票も微々たるものであった。 三面護岸で遊歩道を整備してある川を「美しい自然」と感じる感性では『自然破壊』が進むのも当然だろう。

 日本人の自然破壊に関しては、別の理由を考える事も出来る。 今まで大自然の一員に甘んじていたが、機械化によって急に大きな力を得たものだから
「よぉ〜し、てめえらそこに並べぇ!もうオレは昔のオレじゃねぇぞぉ!嘗めるなぁ!今までバカにしやがってぇ!おらおら、どうだぁ!オレ様の力が分かったかぁ!もうふざけた真似はさせねぇぞぉ!これからはオレ様の天下だぁ!!!」
ってなっているような気がするのだ。 自分を自然の一部と認識しているからこそ、憎さ百倍、ここぞとばかり自分がトップをとろうとして徹底的に自然を『制圧』しようとかかるのではないか? ま、コレに関しては西洋諸国の場合も似たようなものかもしれないから、日本人独特の自然破壊パターンとはいえないかもしれないが・・・。

 ともあれ、里山という『優しい自然』が存在する事と、三面護岸の河という『いびつな自然』が存在する事、この両方が日本人の自然観を代弁しているような気がするのだ。 ちなみにニュージーランド人にとってはこれらは両方とも、もはや『自然のテリトリー』ではなく、『人間のテリトリー』と映ることだろう。

 そういえば西洋には進化論を否定している人達がまだいると聞く。 神が自らの姿に似せて創ったはずの人間が、トカゲから猿を経て進化して来たはずがないという主張らしい。 トカゲや猿を圧倒的な下位にあるものとして見るキリスト教的世界観独特の考え方だろう。 日本人にこういう思考をする人は、はたしてどれだけいるだろうか? 我々にとっては「我々の祖先はエテ公だ」っていわれても、それほどの拒否感はない。 この事をとっても、やはり自然観の差を感じる。

 ここでハタと思い当たるのが、例の厄介な『捕鯨問題』。 私自身は捕鯨反対派である。 理由は
「別に今捕鯨をしなくてはいけない理由は何もない。無理して再開するのはナンセンス。」
というものだ。
 クジラの数が増えてるか減ってるかについては、捕鯨擁護派と反対派ではデータが全く異なるので、よくわからない。 擁護派は増えていることを論拠に捕鯨再開しようとするし、反対派は減っていることを論拠に禁止を求める。 道具として使われる数字は、たいていなんらかの操作がしてあるものだから、眉にツバしておけばいい。 とにかく私は
「増えていようが減っていようが、必要ない以上無益な殺生はするべきではない」
という立場である。 今現在クジラを獲らなきゃ死ぬ人なんているわけはないのだ。

 ちょっと余談だが、賛成派の意見の中には
「捕鯨は日本の誇る伝統文化であるから、外国がとやかく言うな」
なんてのがあるが、雑想録その4 ヒッピーによる日本文化論で述べた通り、私は廃れたものはもはや文化ではないという主義であるから、捕鯨をかけがえのない日本伝統文化だという意見には大反対である。 昔は獲らざるを得ないから獲っていたのであり、他にチョイスがなかったから鯨肉を食べていたのであろう。 それが『復活させねばならぬ貴重な文化』だとは思えない。 日本の捕鯨を本当に伝統文化だと固く信じている方がいらっしゃる事は事実だろうし、その方達を非難するつもりはない。 誰が何を信じようと自由だ。 しかしながら、本当には信じていないくせに、『伝統文化』というセリフを錦の御旗のように使い、なんでもかんでも
「伝統文化である」
といえば通ると思っているならば、おこがましいといわざるを得ない。

 話を戻そう。 私の反対理由は前述の通りだが、西洋諸国の捕鯨反対派の意見をよく聞くと
「減ってるから獲るな」
という理由以外に
「クジラは知能が高いから殺すのは残酷だ」
という理由が出て来る。 これ、私にとっては誠にもって不思議極まりない論旨である。
「痛みも苦しみも感じる事の出来る知能ある動物を6分もかけて殺すなんて残酷」
なんていう彼らのセリフは、私にはどうしても腑に落ちないのだ。 そんなの人間が勝手に自分達の基準に照らし合わせて『想定』してるだけであって、数秒で屠殺されるブタの苦しみが6分で殺されるクジラより小さいかどうかなんて誰にも分かりはしないのだ。 だから下手にそんな屁理屈をくっつけるよりも、ストレートに
「可哀想じゃないか!殺すな!!」
っていわれたほうが10,000倍共感できる。

 これも先のキリスト教的バックグラウンドに照らし合わせれば、
「神の子人間に近い知能を持っている動物は高等、頭の悪い動物は下等。よってクジラやイルカは殺しちゃだめで、イノシシやシカはハンティングしてもOK」
という論理展開になっているらしい事が分かる。 これは先ほどの進化論否定派がよりどころとするところと、同じ根から発している考え方だと思う。 日本人である私にとってはなんとも理解不能のへんてこな理由なのだが、人間と自然をキチッと線引きする文化背景を持つ彼らからすれば、これはこれで筋が通っているのだろう。 私にいわせていただければ、『賢い=高等』『バカ=下等』なんていう価値観は、『金持ち=エライ』『貧乏=みじめ』なんていうのと同様に、人間社会にしか通用しないものだと思う。 殺されるクジラとブタの苦しみを比較する術は人間にはないのだ。 だが彼らはこの論理を、非常に説得力溢れるものとして自信たっぷりに持ち出してくるのである。 もし彼らがこの論理で捕鯨賛成派の日本人を納得させられると思っているなら、それは大きな間違いだといわざるを得ないだろう。 もっと『自然観』の差を勉強した方がいい。 日本人を相手にするんだったら、先ほど述べた通り
「可哀想だろう!?クジラにだって尊い命があるんだゾ。無益に殺戮するのは止めようじゃないか!!」
って言った方が遥かに説得力があるんじゃないかな?

 捕鯨の話を持ち出してしまったせいで、ニュージーランド人の自然観を批判するような雰囲気の論旨展開になってきてしまったが、私には彼らの自然観を批判したり逆に日本人の自然観をことさら持ち上げてみようなどというつもりは毛頭ない。 少なくとも自然保護活動面に関していえば、人間のテリトリーはいかに開発してもいい代わりに、保護すべき部分についても徹底的に保護する、というドラスティックな姿勢は、非常に大きな効果をあげていると思う。 ここエイベル・タズマン国立公園ではゴミを見かけることは1週間に1度あるかどうかである。 我々ガイドが見かけたゴミを持ちかえるのは当然だが、西洋人のお客さんも
「あ、ゴミが落ちてる!持ってかえらなきゃ!」
といって積極的に拾うのである。 もちろんそういう人が国立公園外の町中でまでゴミ拾いをしているはずはないのはいうまでもない事。

 それに対して日本では、いくら保護地域を指定してみても、境界が曖昧ゆえにここまで上手く機能しない。 日本人は風光明媚な自然の中に分け入ってゴミを捨てて帰って来たりしてしまう。 自然の中でゴミのポイ捨てを生まれてこの方1度もやった事ない方、ほとんどいらっしゃらないのではないだろうか? 1人が1回やれば、ゴミは1億2,000万個・・・。 それどころか、近年手に入れた『機械』というパワーに気をよくして、不必要な自然破壊をもやってしまう。 国立公園法がザル法になったりするのも、結局ドラスティックな姿勢で保護するつもりが毛頭ないからだろう。 だから、自然保護の姿勢という点では、日本人はニュージーランド人をはじめとする西洋諸国を見習う必要が多いにあると思う。 曖昧な姿勢では自然保護は上手くいかない。

 ただ、このドラスティックな線引き、こういう仕事をしているとダイレクトに仕事内容に関わってくるだけに、どうも腑に落ちない事が少なくないのだ。 捕鯨問題ではないが、
「それはあまりにも人間中心的な論理展開ではないか?人間の価値観を他の自然界に対して適応するのは無理じゃないか?」
と思うこともしばしばあるし、何よりもその掌を返すようなドラスティックさ自体についていけないものを感じる事もある。 日本のように全てがグレーゾーンってのも困りものだが、グレーゾーンのない白黒ツートンカラーってのもなんだか落ち着かない。 三面護岸を『自然』と感じてしまうような感性は困りものだが、里山の美しさを愛でる心は大事にしていきたいと思うのである。 結局の所、自分自身が両者のイイトコ取りをするべく、バランス感覚を養っていくしかないのだろう。

 どちらにしても、西洋発のエコロジーとか自然保護の考え方の根っ子は、我々のバックグラウンドとは相当に違うものであることは確かだ。 西洋の考え方に単純にかぶれるんじゃなく、その『考え方の差』をよぉ〜く吟味してみる必要がありそうだ。






(その4へ)
HOMEアウトドアスタッフバッグ その5 雑想『自然保護を比べてみれば』
(その6へ)



Copyright(c)2000 Ryu H. Takahashi All Rights Reserved.
paddle@onjix.com