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ちょっと『道具シリーズ』は休んで、今回は野外雑想だ。 アウトドアズマンにとってはすごく大切で身近なテーマ『自然保護』を切り口にして、比較文化論なぞぶってみようかと思う。 くぅ〜、比較文化論だって!カッコイィ〜!!(^_^;;;
日本にいるときから、書物雑誌テレビなどの情報を通じて、 まず私が自然観の違いを痛感した事例をいくつか挙げてみよう。 最初の例は以前Aotearoa Mailに詳述したものを再度取り上げてみることにする。 私は1999年3月にマルボロサウンドのモトゥアラ島にDOCのボランティアとして4泊5日の止まり込み作業をやりに行ったことがある。 DOCっていうのはDepartment of Conservation、ニュージーランド自然保護局のことだ。 日本の環境庁と違い、オフィサー達(お役人諸氏)は短パンにトレッキング・ブーツといういでたちで実際に現場に出て精力的に自然保護活動を行っている、誠に頼もしいお役所なのである。 ニュージーランドの大行政改革のことは日本でも「これぞお手本!」と騒がれたのでつとに有名だが、このDOCという役所もご多分に漏れず、大行革のあおりで人手がまったく足りていない。 そこで、一般からボランティアを募って人手不足を解消しているわけだ。 これは自然保護活動に興味を持つ一般人にとっても願ってもないチャンスである。 そこらへんの高い金をとる『エコツアー』なんかよりもよっぽど面白くてためになるのである。 (↑エコツアー・ガイドの私がこんなこと言っていいのかな・・・(^_^;;;???) さらに私のような外国人だって参加できるのだから、こんないい話はない。 というわけで、このプログラムに参加したというわけだ。
プログラムの詳細や野生のキウィの画像なんかはAotearoa Mailの方をご覧頂くとして、ここではAotearoa Mailに書かなかったことを取り上げてみよう。
仕事の1つがトラック(遊歩道)の整備だったことはAotearoa Mailに書いた通りだが、実はこの作業が私にとっては相当にショッキングだったのだ。
ここは絶滅稀少種を保護するための島であり、キャンプなどのオーバーナイト滞在が禁止されているほど高度に保護されている場所だ。
だから日本人の私としては、 さらにこの時は、一般人立ち入り禁止区域内にDOCオフィサー専用の裏道を1本作った。 この際も木の間を迂回して道を通すような事はしなかった。 狙ったルートに木があれば、容赦なくバッサバッサ伐った。 もちろん、その作業を開始する瞬間まで『保護』されていた場所なのである・・・。 ちなみにDOCのオフィサーが使うだけの裏道なので、一般用トラックと比べて遥かに使用頻度は低い。 でも、バッサバッサ、なのである。
つまり、人間のテリトリーと自然のテリトリーは、ビシッと完全に線引きされてしまうのである。
それまでにニュージーランドのトラックをトランピング(トレッキング)したとき、あまりにトラックがきれいに整備されているのに感動したものだったが、いざ自分が整備する方にまわってみると 他の例を挙げよう。 私のホーム・フィールド、エイベル・タズマン国立公園南端に隣接するマラハウという村がある。 私の勤務するエイベル・タズマン・カヤックスもそこにあるのだが、そのマラハウの村を取り囲む山々には植林地が多い。 そこに植林されているのは主に松だ。 ちなみに松はニュージーランド原生植物ではない。 外来植物なのである。 ニュージーランド滞在経験をお持ちの方は、ニュージーランドの松の恐ろしいほどのデカさをご存知だろう。 ご存知ないかたはAotearoa MailのTrees(巨木コレクション)のページの最下段の松の木をご覧頂きたい。 これでも別段大きい方のサイズではないし、この程度だったら50年くらいで成長してしまうのである。 だから松は非常に大切な林業資源なのである。
ところが国立公園などの保護区域内では松の木は徹底的に排除される。
成長が早すぎる外来種の松が、ニュージーランド原生種の森が育つのを阻害してしまう、という理由だ。
前述のモトゥアラ島での作業中も つまり、この場合は国立公園が自然のテリトリー、境界線を1本越えたところにある植林地は人間のテリトリーなのである。 非常に徹底して線引きされてしまっているのである。 そしてこの1本の線を境に松の木の命運がハッキリと分かれてしまうのだ。
これって、ある意味確かに分かりやすいことは分かりやすい。
曖昧な部分がないので、誰にでも理解は容易なシステムだ。 最近『里山』という言葉がポピュラーになってきている。 完全な原生林ではなく、かといって100%人間がコントロールしている植林でもないグレーゾーン、これが里山だ。 日本では非常にポピュラーな形の『自然』に違いないのだが、これこそ日本独特の自然観が生み出したシロモノのような気がするのだ。 逆にいえば、この里山なるシロモノ、ニュージーランドではどうも成立の余地がないような気がするのである。 ニュージーランド流に考えれば里山は明らかに人間のテリトリー。 だったらもっと効率よく利用できるように開発されてしまうに違いないのだ。 日本のような、曖昧な形で存続する事はなかなか難しいと思う。
一般的に日本の森林面積は国土の7割、ニュージーランドのそれは国土の3割という数字を耳にする。
これを知ったあるニュージーランド人のご婦人が ま、人口密度が20倍以上も違うんだから日本がこういう点でニュージーランドに敵わないのは当然の話。 そのこと自体をいまさら別段とやかくいうつもりはない。 私がここで問題にしたいのは、『森林面積の算出方法が違うらしい』という事実の方。 これこそが、まさしく『自然観の違い』を如実に物語っていると思うのだ。 つまり日本人にとっては植林した杉林や檜林も自然であり、森林に違いないのに対し、どうやらニュージーランド人は植林した松林は森林ではないようなのだ。 彼等にとって植林地っていうのは、畑と同義、極論してしまえば『松製造工場』でしかないらしい。 そういう意味ではニュージーランドの風物詩であるヒツジの牧場も同じ。 日本人にとって見渡す限り広がる牧場風景は心休まる『自然』かもしれないが、あれは彼らにとっては自然ではなく、あくまでも『羊毛育成工場』でしかないようだ。 日本人はニュージーランド人ほど明確に『人間のテリトリー』と『自然のテリトリー』を区別していない。 思うにこれはいわゆる『宗教的バックグラウンド』の違いではないだろうか? ニュージーランドはヨーロッパ諸国同様、キリスト教文化圏の国である。 ニュージーランド人である以上、クリスチャンであるか否かをとわず、いわゆるキリスト教文化の影響を免れて育った人はいないはずだ。 これはいかに無信心であろうとも日本人である限り、神道、仏教、儒教などの影響を受けて育ってしまっているのと同じ事だ。 そして、私はこのニュージーランド人の人間と自然のテリトリーを完全に区別する考え方は、キリスト教文化のバックグラウンドの影響に他ならないと理解している。 対する日本は、木々や石ころはおろか言葉にさえ精霊が宿る国であり、一寸の虫にも五分の魂が宿る国なのである。 人間自身もそういう大自然の一員であり、明確な線引きが出来ないのが我々の自然観だ。 もちろん現代の都市生活を送る日本人にはこの意識が薄れつつあるのだろうが、それでもやはり日本人である以上ニュージーランド人に比べればまだまだ人間と自然の線引きは曖昧だ。
先ほど日本人独特の自然観が生んだものとして里山を挙げたが、もう1つ忘れちゃいけないのがある。
日本人の『自然破壊』は非常に徹底したものがあるが、これもこの日本人独特の自然観が根っ子にあるような気がするのだ。
『自然』の定義が広く曖昧ゆえ、コンクリートで三面護岸してしまった河も日本人にとっては依然として『自然』として受け入れる事が出来る、という事が原因なのだろう。
だから『自然破壊』をそれほど切実に感じる事が出来ないのではないだろうか?
以前、ある大学教授が行ったアンケート調査結果を読んで愕然とした事がある。
もうお分かりだと思うが、アンケート調査の結果をみると、圧倒的多数で2.が票を集めていたのだ。 3.にほとんど票が入らなかった事はいうまでもないが、1.への投票も微々たるものであった。 三面護岸で遊歩道を整備してある川を「美しい自然」と感じる感性では『自然破壊』が進むのも当然だろう。
日本人の自然破壊に関しては、別の理由を考える事も出来る。
今まで大自然の一員に甘んじていたが、機械化によって急に大きな力を得たものだから ともあれ、里山という『優しい自然』が存在する事と、三面護岸の河という『いびつな自然』が存在する事、この両方が日本人の自然観を代弁しているような気がするのだ。 ちなみにニュージーランド人にとってはこれらは両方とも、もはや『自然のテリトリー』ではなく、『人間のテリトリー』と映ることだろう。 そういえば西洋には進化論を否定している人達がまだいると聞く。 神が自らの姿に似せて創ったはずの人間が、トカゲから猿を経て進化して来たはずがないという主張らしい。 トカゲや猿を圧倒的な下位にあるものとして見るキリスト教的世界観独特の考え方だろう。 日本人にこういう思考をする人は、はたしてどれだけいるだろうか? 我々にとっては「我々の祖先はエテ公だ」っていわれても、それほどの拒否感はない。 この事をとっても、やはり自然観の差を感じる。
ここでハタと思い当たるのが、例の厄介な『捕鯨問題』。
私自身は捕鯨反対派である。
理由は
ちょっと余談だが、賛成派の意見の中には
話を戻そう。
私の反対理由は前述の通りだが、西洋諸国の捕鯨反対派の意見をよく聞くと
これも先のキリスト教的バックグラウンドに照らし合わせれば、
捕鯨の話を持ち出してしまったせいで、ニュージーランド人の自然観を批判するような雰囲気の論旨展開になってきてしまったが、私には彼らの自然観を批判したり逆に日本人の自然観をことさら持ち上げてみようなどというつもりは毛頭ない。
少なくとも自然保護活動面に関していえば、人間のテリトリーはいかに開発してもいい代わりに、保護すべき部分についても徹底的に保護する、というドラスティックな姿勢は、非常に大きな効果をあげていると思う。
ここエイベル・タズマン国立公園ではゴミを見かけることは1週間に1度あるかどうかである。
我々ガイドが見かけたゴミを持ちかえるのは当然だが、西洋人のお客さんも それに対して日本では、いくら保護地域を指定してみても、境界が曖昧ゆえにここまで上手く機能しない。 日本人は風光明媚な自然の中に分け入ってゴミを捨てて帰って来たりしてしまう。 自然の中でゴミのポイ捨てを生まれてこの方1度もやった事ない方、ほとんどいらっしゃらないのではないだろうか? 1人が1回やれば、ゴミは1億2,000万個・・・。 それどころか、近年手に入れた『機械』というパワーに気をよくして、不必要な自然破壊をもやってしまう。 国立公園法がザル法になったりするのも、結局ドラスティックな姿勢で保護するつもりが毛頭ないからだろう。 だから、自然保護の姿勢という点では、日本人はニュージーランド人をはじめとする西洋諸国を見習う必要が多いにあると思う。 曖昧な姿勢では自然保護は上手くいかない。
ただ、このドラスティックな線引き、こういう仕事をしているとダイレクトに仕事内容に関わってくるだけに、どうも腑に落ちない事が少なくないのだ。
捕鯨問題ではないが、 どちらにしても、西洋発のエコロジーとか自然保護の考え方の根っ子は、我々のバックグラウンドとは相当に違うものであることは確かだ。 西洋の考え方に単純にかぶれるんじゃなく、その『考え方の差』をよぉ〜く吟味してみる必要がありそうだ。 |
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